「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ 『酔夢月』 ---------------------------------------------------------------------------- □交差点 「有彦ぉぉぉぉぉぉ!!」 【有彦】 「遠野のバカやろォォォォォォォ!!」  夕闇に包まれた町並みを、野太い男の悲鳴が引き裂いていく。  俺のそばを走っていた有彦をアルクェイドの容赦の無い一撃が吹き飛ばしていった。  さっき秋葉の髪の毛をやり過ごした時の一瞬の隙を突かれたのだ。  吹っ飛んでいく親友を目にしても、俺は足を止める訳にはいかなかった。  連続する戦いの中、常に傍らにあった親友が遂に倒れた。 「勝手に殺すなぁぁぁぁ!!」  だがお前の犠牲は無駄にはしないぞ有彦。  俺は頬を拭い(拭うフリ)、駆け足を速めた。  ここで彼女らに捕まる訳にはいかなかった。  それでは今までの展開と一緒だ。  もうラブコメは沢山だ!!  だが俺はそんな事は断じて認めない。  俺はごく普通に落ち着いて、一人縁側に座って、日本茶をすするのだ。  もう、絶対だ!!  日がな一日、盆栽でも手入れしながらのんびり暮らすのだ!!  その為にはあらゆる犠牲を払ってでも彼女らから逃げ出す必要があった。  だが既に隠れ家の乾家は陥落し、盾は失われた。  それでも俺は走った。  俺の決意は固かった。 □林の中の空き地 「くそっ!? みんなお祭りディスクだからって無茶のしすぎだ!?」  悪態をつきながらも油断なくあたりを見回す。とりあえず人影は無い。  俺、遠野志貴はグッタリと肩をおとした。  走り詰めの体は重く、心臓は早鐘のように鳴り響いていた。街からここまでの疲労がどさりと心臓にのしかかっていた。  あたりは静かだったが、自分の荒い呼吸がそれを打ち砕いているのが感じ取れた。  俺は再びあたりを見回した。  気が付けば、遠野家の敷地の中だった。  ここは遠野の屋敷の端のほうの、小さな広場だった。  幼い頃の思い出の場所に、いつのまにか逃げてきてしまっていた。  初秋の風が、優しく通り過ぎる。  息を整えながら見上げれば、そこには真円を描く満月があった。光は木々に降り注ぎ、地面に柔らかな斑を描いていた。  季節はもう秋。  夏の名残を残しながらも、冬へ向けての準備を始める、物悲しい季節。  お祭りの日々はようやく終わりの影をちらつかせ始めていた。 □林の中の空き地  あたりを見回した後、俺は一息ついた。  どうやら五人ともまく事に成功したらしい。  ゆっくりと木にもたれかかった。  そこでゆっくりと短い休息に入った。  どうせすぐに彼女らがやってくる。それまでに少しでも体力の回復をしておかなければならない。  次のショート・ストーリーは一体なんなんだ!?  台本を思い出してみたが、その内容に頭痛がしてくる。  何とかしてそれから逃れなければならない。  胸に手を当てながら目を閉じ、呼吸を整える。  途端に、先ほどまでの彼女らの姿が思い出される。  一つ前のショート・ストーリー用の衣装をいち早く脱ぎ捨て、それでも何だか猫耳は離さずにそのままにじり寄ってくるアルクェイド。  そんなアルクェイドから俺を守るように立ちはだかるシエル先輩。  ああ、この人は大丈夫なのかとホッとするのも束の間、手にはトマスによる福音書だかなんだかという物騒な武器が握られている。どこまで冗談なのか、あるいは全て本気なのか。この人も予断を許さなかった。  更に訳のわからないのが、秋葉だった。秋葉は何故か露出度の高いビキニを身につけていた。何かのコスプレらしいが、俺にはさっぱりだった。何のコスプレなのかがわかれば、対策もたてられるのだが……。  そして、それらの混乱に拍車を掛けていたのが、二人の『翡翠』だった。  当然というかなんというか、一人は本物の翡翠で、もう一人は琥珀さんの変装だろう。以前の二人なら識別もできたかもしれないが、今はもう無理だ。変装の技術的にも、彼女らの内面的にも。翡翠は琥珀さんに似てきているし、琥珀さんはきちんと感情を出すようになった。普段なら喜ぶべき事だが、状況が状況だ。喜んでなどいられない。  なお悪い事に、二人して料理を作っていた。  多分、そういうネタだ。  危険だ。危険すぎる。  かつてこの街で繰り広げられた戦い以上の危険な気配に俺は震えた。  キミ達、そんなにヒロインの座が欲しいのかっ!!??  思わず大声で叫びそうになる。  それでは彼女達をおびき寄せてしまう。  俺は慌てて自分の口をふさいだ。  全部で十夜あるんだから、素直に二話ずつにすればいいじゃないか!?  心の中でどれだけ毒づいても事態は一向に好転しない。  有彦、代わってくれ……。  先ほどの市街地での撤退戦で星になった親友に、思わず助けを乞う。だが当然事態は好転しない。 「ヤツめ、もう少し粘って俺の盾になればいいものを」  思わず友人への不平が出る。  が、やはり事態はまったく好転しない。  そろそろ真面目に次の逃亡ルートを考えなければならない。  有彦の家はもう使えない。  さっき街から逃亡してきた事を踏まえると、案外学校もいいかもしれない。  だが学校までの距離、彼女らの行動力、自分の体力、そしてこの煌々と輝く月が、学校までのルートの使用を不可能にしている。  一体どうする?  灯台下暗しという言葉を信じてこのままここに隠れるか?  だが動物並みの感覚の持ち主が複数人いる以上、何らかの方策は練るべきだろう。 『ガサリ』 □林の中の空き地  物音! しまっ!? 【アルクェイド】 「し〜き〜〜〜♪ にょ〜♪」  一瞬の判断の遅れが命取りだった。  猫耳を装着した幸せいっぱい状態のアルクェイドが真横から飛びついてくる。 「くそっ!?」  俺は体をひねって対応しようとするが、疲れた体は思ったように反応してくれない。 『ドゴッ!! ドゴッ!!』  アルクェイドの手が俺にかかる直前、それを遮るように聖典が打ち込まれる。  俺の前髪を聖典がかすめ、なにやら焦げ臭い匂いが漂った。  次いで目の前に黒い影がすばやく降り立って、アルクェイドと向かい合った。 【シエル】  先輩だ。 「遠野くん、すぐ済みますから♪」  一瞬だけ笑顔を見せた先輩は、とても綺麗だった。だが、武器を構えてするべき笑顔ではない。俺は思わず後ずさった。 【シエル】 「その後、ゆっくり、ね♪」  そう言い残して彼女はゆっくりと顔をアルクェイドのほうに向けた。彼女のピンク色の舌が上唇を舐める。  先輩、今回はエロは禁止です……。  錯乱状態のままに一歩、また一歩と後ずさった。  左右を確認する。  不幸にして道は一方にしか空いていなかった。  仕方ない、屋敷のほうに逃げよう。  俺は体に活を入れると全力で走り出そうとした。 『志貴さま!!』 □林の中の空き地  ビクリ。  いままさに逃げようと動き始めた体が一気に硬直する。  綺麗にハモった翡翠の声が聞こえた。  はあ。  思わずため息をついた。  見たくは無かったが、そちらに顔を向けた。 【翡翠】 【翡翠】  案の定、そこには二人の翡翠がいた。  しかも、二人の手にはそれぞれ料理以外のモノにしか見えない謎の物体が盛り付けられた皿がささげ持たれていた。  逃げるか?!  いや、逃げるったって一体どこへ!?  どごーん! ば〜ん! ぎゃりりりぃぃぃん!!  背後からは俺自身の内心を表すかのような不穏な戦闘音が聞こえてくる。 【翡翠】  翡翠たちがまた一歩、間合いを狭めた。 【翡翠】  じりじりとにじり寄ってくる。  俺は彼女らの気迫に押され、徐々に後退する。  どんっ。  背中が背後の木に当たった。これ以上はもう下がれない。  止せ! 翡翠!! その目は止せ!! っていうか二人でその目をするのはどうか許して!!  もうこれを食べるしかないのか!?  食べればいいのか!?食べれば!?  遂に俺は観念した。  だが、こうなってみると逆にすがすがしい感じもする。  もう逃げなくてもいいんだ。ゆっくり寝られるよ……きっと……(気絶だけど)。  そんな考えが頭をよぎる。  だが。 □林の中の空き地 「ウチの兄さんになにしてるっちゃ〜〜!!!!」  頭上から降ってくる秋葉の声。  次いで。電撃。  電撃!? 【秋葉】 「にーさんのバカぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」  薄れゆく意識の中で、最後に目にしたのは虎ビキニの鬼娘だった。 「そ、そういうネタだったのか…………」  俺は口から黒い煙をゲフッと吐き出すと、そのままバッタリと倒れた。 □屋敷の裏の林  あれ?  俺はそこで目が覚めた。  夢?  まさか夢オチか!?  この俺がまさか、何てお約束な。  独り愕然とする。  見回せばあたりには誰の姿も無く、俺は独り林の中の広場に座り込んでいた。  どうやらちょっと休んでいる間に、居眠りしてしまったようだった。  逃げなければ。  そうは思うのだが、体に染み込んだ疲労のせいで動くのも億劫だった。  相変わらず月が綺麗に光を投げかけていた。  吹き渡る風は、涼しげに俺の頬をかすめ、木々の葉を揺らす。  何故だか妙に心が落ち着いていた。  8月の半ばからのお祭り期間に突入してから、既にひと月。  あれ以来こんなに心の休まる時は無かったように思う。  ドタバタに次ぐドタバタの連続。  今の静けさからはそんな日々が遠くに感じられた。  別にあの喧騒が、嫌いだという訳ではなかった。  アルクェイドの無邪気さも。  秋葉の焼き餅も。  シエル先輩の優しさも。  琥珀さんの笑顔も。  翡翠の献身も。  俺はみんな好きだったし、みんなも俺の事を好きでいてくれている、とも思う。  ただ。  ただ少しだけ…………。 「よう、シキ。こんな所でどうした? 今日は皆と一緒じゃねぇのか?」  親しげな声が、耳に届いた。  目を開けて周囲を確かめる。  真正面。  広場の端。  そこに。  いつかの殺人鬼が立っていた。  着物のように見える古い型の服と長い髪を風になびかせて悠然と立っていた。 「ああ、アンタか……。なんとなく月に誘われてね……。一人で月見と洒落込んでみたのさ」  本当の理由は違うのだが、しゃれっ気をこめてそう言ってみる。 「だな。今日は確かにいい月だよ。確かにこんな夜にねぐらで燻っているのはいただけないな」  男はそう言って空を見上げた。そして目を細める。 「今日は、血の匂いがしないんだな、アンタ」  俺は彼の姿を見ながら言う。 「ば〜〜か。そういつもいつも殺してる訳じゃネエんだよ」  男はクスクス笑っていた。  そして、彼は着物を揺らしながらゆっくり歩み寄ってきた。  警戒しなければならない相手のはずだった。  だけどどうしてか、そんな気が起きなかった。 「それとな、アンタって呼ぶのはよせ。今日はせっかくオレの方からオマエに会いに来てやったんだから」  ようやく、男の足が止まる。既に俺の目の前まできていた。  以前の彼とは何かが違う。そんな気がする。 「ああごめん。会えて嬉しいよ…………」 「オマエもな、元気そうで何よりだよ、シキ」  挨拶が終わると彼はどっかりと腰をおろした。 「なんだテメェ、うかねェツラだな」  彼は柔らかい微笑を浮かべながら俺の顔を覗き込んだ。 「オマエもやるかい?」  そう言って彼は一升瓶とコップを2つ差し出した。その表情は満面の笑顔に変わる。 「ああ、貰うよ。月見酒も良いかもしれない」  酒は得意な方ではなかったが、今日はなんとなく付き合ってやりたかった。 「おっ、話せるネェ」  彼は俺にコップを握らせると、そこに酒を注ぎ始める。  コポコポコポ。 「ありがとう。じゃあ、俺も」  彼から瓶を受け取り、彼の手の中のコップに酒を注いでいく。 「こぼすなよ?」  妙にせこい事を言う。昔も彼はこうだったろうか?  俺は思わず苦笑した。 「気持ちの悪いヤツだなぁ。おっ、もういいぜ。ほんとにこぼれちまうよ」  瓶を立て、蓋をする。それを傍らに置くと、俺は自分のコップを手に取った。 「じゃあ、乾杯といこうか?」  彼は瞳をくるくるさせながら、子供のように言った。 「いいねぇ。なんに乾杯するんだい?」 「オレとオマエに」  彼は言うと目を細めた。それはとても優しい笑顔だった。俺も、そんな笑顔をしているだろうか? 「幼馴染に……」 「親友に……」 『乾杯!!』  カキン。  俺と彼のコップが打ち合わされる。  再会。  そう。これは再会だ。  八年前に別れたっきりの、二人の少年の再会の儀式だった。 「会えて嬉しいよ、四季……」 「そういえば……」  彼は静かに話す。 「ここはオレ達の遊び場だったな……」  彼は懐かしそうに目を細め、あたりを見回した。  どこもかしこも、想い出でいっぱいだった。  春のさくらも。  夏の暑さも。  秋の落ち葉も。  冬の雪も。  彼や秋葉、翡翠の四人の思い出でいっぱいだった。  細めていた目をぱっと開くと、彼はこっちを向いた。 「なあ」 「なにさ?」 「みんな元気か?」  みんな。  俺と秋葉と翡翠。そして、多分琥珀さんの事。  俺はふっと笑って答えた。 「秋葉は………、明るくなったよ」 「へぇ」 「最近さ、幸か不幸か、身近に同じ歳の友達が出来てさ。いつも大声で言いあってさ。ああいうの、はじめてなんじゃないかな?」 「そうか……ともだちができたのか……。でかしたっ、シキ!」  彼は片手を伸ばして俺の肩をガシガシ叩く。 「いててて。翡翠は………、いや翡翠も……明るくなってきたよ」 「そうか。良かった。アイツは明るく笑ってて欲しかったんだ……」  彼は満足そうに笑った。  コップの中の酒をあおる。 「照れて笑った顔が可愛らしくてさ」 「ホホウ?」  彼は意味ありげな目でこちらを見た。  肘でこっちをつつくような仕草をしてくる。 「ごほん。琥珀さんは……」  わざとらしく咳をしてみる。 「……琥珀は?」  彼の目がすっと真剣になる。 「……笑うようになったよ」  それを聞いて、彼の表情が崩れる。そして大きく頷いて、自分の手で自分の額を押さえて大きく息を吐き出した。 「そうか、そうか、そうか!!」  声を大きくして嬉しそうに何度も頷いている。 「キミは、琥珀さんにご執心だったのかい?」  彼は俺の言葉に反応して、片目だけを開いてこちらを見る。口元に笑みが浮かんでいる。 「琥珀に? オレが?」 「ああ。そう見える」 「……、そうだな。そうかもしれない。親子そろってアイツには迷惑かけ倒しだったからな。そりゃあ、ご執心だよ」  そう言ってクックック、と喉の奥で笑う。 「ところでよ、家に出入りしてる白いのと黒いのは一体なんだ?」  白いのと黒いの……?  俺は一瞬考える。  白白白……。猫耳が思い出された。  黒黒黒……。物騒な大型武器が脳裏をよぎる。 「アルクェイドとシエル先輩の事?」 「あぁ、そんな名前だったと思うが……」  やっぱりそうか。 「あれは……」  ちょっと考える。  彼が聞きたいのはどういう意味だろうか。  吸血鬼?吸血鬼狩り?  いや、そういうことではないだろう。 「大事な友達だよ。俺と、秋葉の。さっき話したろう?」  彼はなにやら得心したようで、しきりに頷いている。 「そうか。友達で、ライバルで、というヤツだな?」 「ライバル?なんで?」 「……オマエはそういうヤツだよ、シキ」  彼は仰々しい仕草でため息をついた。 「ともかく、オマエらは元気に楽しく毎日を暮らしている訳だ」 「……ああ、そういう事になるな」  彼自身の事を思うと心が痛む。  だが彼は恨み言の一つも言いはしない。 「良かった。本当に良かった」  そう頷くのみだった。 「あのさ……」 「うん?」 「すまん」 「何がだい?」  彼は酒をあおる。 「以前……オマエにさ。話したろう。『昔の友達』の話。したろ?」 「ああ、あれか……」  コーヒーを飲みながら昔話をする彼の姿が今の彼に重なる。  そうだ。確かにそんな話をしたような覚えがある。 『そいつはなんていうか……そうだな、何も持っていなかったんだ。だから何も求めていなかったように見えたんだろう。それはなんていうか、酷く孤高でさ。孤高っていうのは孤独の別名だろう。だからオレは、それが気になって仕方がなかった』  彼はそう言っていたような気がする。 「あれな。間違いだ。すまん」  彼は照れたように笑っている。  逆に僕は気になった。一体、どこが間違いなんだろう? 「なんで?」 「ば〜か。そういうモンは自分で考えるんだよ」  彼はクックックックと喉の奥を鳴らした。  そういえばこういう人だった。  全てを与えてくれる人ではなかった。  だから俺は彼が好きだったのだ。  コプコプコプ。  気が付けば、彼は俺のコップに酒を注いでくれていた。  俺も彼のコップに注いだ。 「ヒントぐらいはくれよ」  うむ、なんだかこの酒は口当たりがいいな。 「う〜ん。そうだな、オレだ」 「はぁ?」 「後はオマエで考えろ」  彼は楽しそうに笑って、コップを傍らに置いた。そのままごろりと地面に横になる。  俺も、コップの中身を飲みほすと、地面に体を横たえた。  火照った体に、地面がしっとりと気持ちよかった。  背中でかさかさと早めの落ち葉が音を立てる。 「はぁぁぁぁ…………」  自分のため息が大きく響くのがわかった。  見上げれば満天の星空だった。 「なんだオマエ。暗いぞ」  彼が笑っていた。 「ふふ、はははははは」  つられて俺も笑い出す。  何故だかおかしかった。 『ふはははははははははは!!』  二人ともその姿勢のままに笑い声を上げた。  どうしてか、それを止める事が出来なかった。 「あはは、何で笑ってんだよ、オマエ、ふふふふふふ!」 「はははははは、き、きみだってそうじゃないか、ふふふふ、はははははは!!」  俺たちはしばらくそうやって笑っていた。  どのくらい経ったろうか。  流石に俺達の笑いも途切れていた。  心地よい疲労と、ある種の脱力感。 「なあ」  声。  これまでに無い真剣な声。 「なんだい?」  自然と俺の声も硬くなった。  彼は一体何を言うのだろうか。 「…………もう、気にするなよ」  それは、俺が最も聞きたくない言葉だった。 「止めてくれ」  何故なら、ここは。 「それ以上言わないでくれ」 「どうしてだ?」  いや、彼は。 「俺の、夢、なんだろう?」  夢。俺の夢。  俺の心が作り出した、都合のいい幻。  もう、ありえない、失われた過去と。  流れる事の無い現在。  そして、決して訪れる事の無い未来。  俺が、俺の手で閉ざした未来。 「どうしてそう思う?」  彼は相変わらず喉の奥で笑う。  どうして、か。  それは……。 「キミが俺を励ますからだよ」  そう。それはつまり。 「キミは、俺の知っているキミではないと思うからだよ」  八年以上前の彼ならともかく。  現在の彼は、優しい言葉を話すような人物ではない筈だ。  彼は、まごうことなき、殺戮者だったのだから。 「という事は、オマエは今のオレが殺人者っぽくないのが気に食わないわけだ?」  ありていに言えばそうだ。 「死んで、正気に返ったホンモノ……ホンモノの幽霊かもしれない、とは思ってもらえないわけか」  彼は苦笑している。  右手で目のあたりを押さえ、左手は宙に泳がせながら、笑っている。 「若いのにタンパクだネェ、オマエは」 「……普通だと思うけど……」  普通だ。  これが普通のはずだ。  いくら正当防衛とはいえ、俺たちの手によって未来を閉ざされてしまった人間が、俺に向かって気にするなと言う。  これが都合のいい夢でなくて、一体何だというのだろうか? 「……そうだなぁ……じゃあこういうのはどうだ?」  彼は上半身を起こしてこちらを見下ろした。 「オマエは、世界のコトをどう思う?」  世界? 「ああ。現実ってスバラシイって思うかい? それとも……」 「それとも?」 「本当にこれが存在している保証は無い、そう思っているかい?」  現実か。  日々暮らしている世界。  俺はそれが本当に存在していると証明できるだろうか?  その全てが、幻であったなら?  俺がそれを現実だと思っているものが、実際には自分の意識が作り出した妄想で、本当の意味での現実からは程遠い可能性。  目で見たものが本当に現実か?  耳で聞いた事は本当に現実か?  それとも? 「現実を現実だと証明する事なんて誰にも出来ないよ」 「上出来だ。つまり、世界は人の内側にある。ここまではいいか?」  俺は頷いた。  視線はまだ星空を捉えたままだった。 「ところで、オマエ、仏教は嫌いか?」 「いや、別に嫌いじゃないけど……」  嫌いじゃないが、好きでもない。  今時の日本人は、自分の敵にならない限り、宗教の事など何も考えないのではないだろうか?  どうだって良い事だ。 「仏教に、こういう考えがある。『万物全て まず心ありて 心を拠り所とし 心により成る』……つまり、あらゆる世界は心だけでできているっていう考え方だよ」  世界は心だけでできている……? 「世界も人も、他の全ても、人の心の内側にある」 「それはつまり、自分が見たり聞いたりするのは、すべて心が作り出したものってことかい?」 「そうだ。オマエが賢くて助かる。『眼識』・『耳識』・『鼻識』・『舌識』・『身識』、人間の五感を司る五識と、人間の表層の『意識』に加えて、深層心理の『末那識』、『阿頼耶識』。これら八識が世界の全てを形成している。そういう考えだ」  聞き慣れない言葉があった。  疑問を解決すべく、問う。 「マナシキ? アラヤシキ?」 「ああ、この2つは、いわゆる深層心理というヤツだよ。末那識は表層意識に影響を与える文字通りの深層意識。心の流れだよ。阿頼耶識は……そうだな、『根源』だ」 「根源?」 「ああ。今までのその人間のやってきたこと。見たこと聞いたこと。そんな事がたまって、集まっているんだ。それが、残りの七識のきっかけになるんだ。簡単に言えば、業、だな」 「業……」 「ちなみにこれら八識は一定の形をもたない。互いに干渉し、次なる状態を次々と作り出す」  そのとき、心の中に閃くものがあった。  もし心がそのように形作られているのなら  反転衝動。  彼が反転してしまったのは、彼自身の……。 「そうだ、シキ。オレの心の中で反転してしまったのは多分阿頼耶識だよ」  反転した阿頼耶識。  反転した業。  残りの七識をそのままに、きっかけのみが反転する。  そして、七識が引きずられ。  識の全てが次の業を作り出す。  そしてその業は。  彼に後戻りを許さなかった。 「……そうか……」 「解ったか?」 「ああ。世界とキミのことは解ったよ。でもまだキミがホンモノかもしれないというところまでは解らないな」  全てが夢かもしれないという事はわかった。  彼の状態もわかった。  だが、それでも現在の彼が現われる理由がわからない。  本物だとしても、出てくるのは殺人者の彼であるはずではないか? 「ったく、トロイヤツだなオマエ」  彼は髪をガシガシかきあげた。  そしてふっと息をひとつ吐き出す。 「オマエ、自分の目を忘れているだろ?」  目。  直死の魔眼。  運命を、とりわけ死の運命を見ることの出来る眼。  結果だけを具現化せしめる力。 「死を見る目ではどうにもならないだろ」 「……オマエの目が真に直死の魔眼だったなら、そうだな」  彼は片目をつぶって、こっちを見ている。 「……こう、考えた事は無いか? あるはずだぞ?」  彼は閉じていた目を開き、両手を振って立ち上がった。 「自分はシキたる眼が故に、死に長くさらされたが故に、死を具現化せしめる概念を得た、と」  死にさらされたからこそ、そういう眼である自分は死を理解した? 「つまり、俺の目は厳密には直死の魔眼では無いと?」 「ああ。だってオマエ、秋葉の髪が見えたんだろう?」  秋葉の髪。  全てを略奪する髪。  紅い、赤よりなお紅い髪。 「……ああ。見えた」 「オマエの眼は元々そういう眼なんだよ。……ってコレはオマエのセリフだったな」  彼はゆっくりと振り返った。  その表情は引き締められ、その瞳は淀みの無い光をたたえている。  その彼を見つめる俺は、阿呆のように呆然としていた。 「……今日は良く喋るんだね」  俺はやっとそう呟いた。  彼はそう言われて苦笑する。  大げさな身振り手振りでお手上げのポーズをとる。 「だって、これオマエの都合の良い夢なんだろ?オレの好きにやらせろよ」 「違いない」  思わず表情が緩む。  夢につっこんでどうする気なのだ? 俺は。 「ともかく、もしオマエの眼が、『そういう眼』なら……。オレという概念を理解してくれているかも知れない、って事さ」  解りかけてきた。 「オマエが理解しているのは、一体いつのオレだろうな?」  複雑に絡み合った思考がゆっくりとほぐれていくのがわかる。  そういうことか。  俺は自分の顔がやさしく笑っているのが解った。 「多分、八年前のキミだと思う」 「そう。その通りだ、シキ。そしてオマエは、この前会った『オレ』をベースに……」  もう答えは俺にも解っていた。 「キミという概念を俺の中に予測・構築した?」 「正解だ。オレはシキだ。まぎれもなく、遠野シキだ、シキ。オレは、シキのシキが生み出した、シキたるシキなんだよ」  遠野志貴の識が呼び出した人間。  それが彼だ。彼はそう言っているのだ。 「だから、志貴」  彼は両目を閉じた。  そして手を腰に当て、顔を空に向ける。  大きく息を吸い込み。  笑った。  とってもいい笑顔だった。  記憶の中の、想い出の日々を思い起こさせる。 「オマエにとって都合の良い部分があるとするなら……それは……」  ゆっくりとその目が開かれる。  強い意志の篭った眼だ。 「オレが反転していないという事だろうな」 「ああ。これがただの夢ではない、という条件で、ね」 「……つまんネェこと言うヤツだよ、オマエは……」  彼はその言葉とは裏腹に、とても楽しそうに笑っていた。  俺は一体、どんな顔で彼を見ているのだろうか?  俺も上半身を起こした。  そのまま傍らの木に上半身を預ける。 「どうせどっちだかわからネェんだから、楽しい方にしようとか考えないのか?」 「…………」 「そういうヤツだよ、オマエは。ただな、」  彼はそこでいったん言葉を切る。  そしてしばらく無言でいた。  言うべきか言わざるべきか。  多分そんな時間。 「オマエに会おうなんて思うシキは、きっとオレだけだぜ?」  そして、少し照れ臭そうに笑った。  不思議と人好きのする笑顔だった。  遠い遠い在りし日の笑顔とそれが合致する。  その笑顔を見て。  不覚にも俺は。 「泣くこたぁネェだろ、オマエ」  涙を流しているのだった。  悲しかったか?  ———もちろん。  嬉しかったか?  ———もちろん。  それは何故?  ———それを求めていたが故に。  夢であっても?  ———もちろん。  ———失っても涙を流す事が出来なかったが故に。 「何で、泣く?」 「あははは」  俺は泣きながら笑っているようだった。  自分の心がコントロールできない。  次から次へと涙が溢れてくる。  俺は顔を上げて涙を手で拭った。  そこで彼が顔を伏せているのに気が付いた。 「キミだって、泣いているじゃないか」  彼は顔を伏せたまま答えなかった。  長い頭髪が微妙に揺れる。  肩も、少し震えていた。  ポタリ。  月光を照り返して落ちていく雫がひとつ。  彼もまた手で涙を拭うとこちらを見た。 「うふふふふふ」 「ははっははははははは」 「あ〜っはっはっはっはっはっは」  俺達は笑っていた。  ずっとずっと、笑っていた。  だが同時に涙を流していた。  涙の訳は恐らくひとつ。  かつて、互いが流すはずだった涙。  彼は、俺を殺した時に。  俺は、彼が死んだ時に。  不思議な事に、死に別れたはずの二人が面と向かい合ったままに。  ただひたすら、笑って、泣いて、そして、そして。  色々な感情が入り乱れ、俺にはもう何もわからなかった。  涙の訳こそ一つであったが、介在する感情は数え切れないほど多かった。  だが、それは俺が長い長い間、求め続けた救いであったように思えた。  今の俺達は、他人の目にはきっと滑稽に映る事だろう。  だがそんな事はどうだってかまわない。  人間の真実は得てしてみっともないものだ。  幻想でも夢でも滑稽だとしても。  やっとたどりついた真実のなのだから。  俺はこうして、ようやく彼の死に涙した。 □林の中の空き地  いつのまにか、月が空から消えようとしていた。  どうやら、かなり長い間話をしていたようだった。 「月が……」 「ああ」  二人で月を見上げた。 「そろそろ行かなきゃな」  彼はそう呟くと俺のそばに歩み寄った。  途中、酒瓶を手にとって中を覗く。  どうやら既に空だったようで、すぐに興味を失って足元に置いた。 「最後に、一つ聞いていいかい?」  彼にしては珍しく、慎重な問いかけだった。  特に断る理由もないので、承諾する事にした。 「いいよ。なんだい?」 「オマエ、前会った時に、俺たち殺人者がズレているんじゃなくて世間の方がズレていると言っていたけど……」 「ああ」  そんな事もあった。もっともあの時の俺は七夜としての俺や、繋がっていた彼の意志に引きずられていたような気がするが……。  ボクサーを引き合いに出して、世間のズレ方を話したおぼえがある。 「オマエ自身はどう思ってるんだ? 遠野志貴?」  ちょっとびっくりする。  よもや彼がそれをわかってくれているとは……。  いや、彼なら解っていて当然かもしれない。  何故なら彼は、俺の親友なのだから。 「俺は……」  答えは決まっていた。 「やっぱりズレていたのは以前の俺たちだとおもうよ」 「どうして?」 「だって、今の俺たち、それこそ『ボクサー』だもの」  人は弱肉強食など許さない。そう信じている。  命は平等で、そこにあるだけで生きていく権利があると信じられている。  だが現実の世界は、悲しいが弱肉強食だった。  人は、弱肉強食から逃れんが為、群れとなった。  もちろん群れとなった理由はそれだけではない。  一人は寂しいからだ。  羊の群れがある。  ある狼は羊の仲間になりたかった。  ならばその狼は羊の群れのルールには従わなければならない。  もし狼が狼のルールで群れの中にあったなら。  群れ自体が崩壊して、その狼は結局群れの仲間にはなれない。  だが、羊の群れの仲間であっても、狼に牙があることは疑うべくもない。  牙を否定して生きることはナンセンスだ。  羊は、狼を受け入れたのだから。  ならば、狼は狼のまま、羊のルールを守るだろう。  狼は牙を研ぐだろうか?  それとも研がないだろうか?  そして、自ら他の狼との戦いを禁じるだろうか?  だがそれは羊が決める事だ。  結局。  ボクサーがいた。  そのボクサーは羊の仲間になりたかった。  そういうことだ。  羊がボクサーになるわけではない。  何故なら。  争いを好むか、好まないは、多くの場合生まれながらの資質なのだから。  それに俺の目は先天的に備わった能力だから。  それは狼の牙の如く。  俺の。  俺たちの、所属したい群れとは一体なんだろう?  問うまでもない。  あの、遠野の屋敷で待ち受ける大切な家族達。  あの、騒がしくも無邪気な白の姫君。  あの、優しい笑顔の先輩。  そして、騒がしいが平凡な、日常。そこにある人々。  俺は、吸血鬼と戦ったが、その群れは、俺を否定するだろうか?  そんな事はない。ないはずだ。  俺はそんな群れに居たいと思った。  そんな世界に居たいと願った。  なればこそ、俺は…………。 『そっか———やっぱり一緒には行ってくれないんだね、遠野くん』  そうだろう? 弓塚…………? 「そうだ、それでいい!」  彼は俺の肩を叩いた。 「オマエはずっとそっちにいるんだ。オレ達のようにこんな所まで来るんじゃあないぞ!」  彼は心底嬉しそうだった。  どうしてそんな笑顔が出来るのか。  どうして俺の事をそんなに思ってくれるのか。  そう疑いたくなるほどの、真剣な言葉。 「オマエは、そっちで、ずっと皆を守れ。そう出来ない、俺の代わりに」  ああ、そうだ。  それは、是非ともしなければならない。  皆のために。  彼のために。  そして、俺自身が生きるために。 『そいつはなんていうか・・・・・・そうだな、何も持っていなかったんだ。だから何も求めていなかったように見えたんだろう。それはなんていうか、酷く孤高でさ。孤高っていうのは孤独の別名だろう。だからオレは、それが気になって仕方がなかった』  いいや、違う。以前はどうだかわからないが、少なくとも今はもう違う。  今なら、はっきりとそう言える。 「解ったか?」 「解った、解ったよ、シキ……」  彼の言葉に頷く俺。  彼の意図する答えではないだろう。  会話としてはまったく成立していないはずだ。  だが間違ってはいない。  彼が俺に辿り着かせたかった答えはきっとそういうものだ。  理屈ではない。  それが、人の願い。  それが、人の生きる意味。 「なら、いい」  そう言って彼は着物の袖で俺の顔をそっと拭った。 「あまり、手間を掛けさせるな、シキ……」  その表情は穏やかだった。 □林の中の空き地 「そろそろ時間だ……もう行かなければ……」  名残惜しそうに彼が言った。  姿勢を正し、着物を正す。 「もうちょっといられないのかい?」  俺はもう少しだけ話がしていたかった。 「ダメだな。聞こえないか? オマエを起こそうとする声がする」  そう言って耳に手を当てるポーズを取る。  ダメだ。俺には聞こえない。  その旨を告げると、彼は苦笑した。  でもそれって結局……。 「結局コレは夢だったのかい?」 「オマエもこだわるネェ……」  彼は楽しそうにしている。 「でもこの声はオレにしか聞こえてないから、嘘って事もあるんだぜ?」  クックックック。  まったく意地悪なヤツだ。 「じゃあな、オレは行くよ。またな」  軽い挨拶を残して、彼はゆっくりと広場を去っていく。  追えばいいような気もしたが、俺はそうしなかった。  何故か眠くて眠くて体が動かないのだ。 □林の中の空き地 「もう、会えないのかい?」  かろうじて声だけは出す事ができた。 「さあな。会えるんじゃないか?」  彼は振り向かない。 「……夢ならすぐにまた会えるさ。ただ、もしホンモノなら……オマエが死ぬまでお預けかな」 □林の中の空き地  俺は何だかだんだん眠くなってきた。 「ああ、そうだな……そうかも……しれないな……」 「しょうがない、大ヒントを一つやろう」 「……ヒ…ント……」  もう目を開けていられない。意識はどんどん沈み込んでいく。  どんどん彼の声が遠くへ離れていく。 「ああ。さっきオマエに仏教の話をしたろ? あの話の正式な題目は『ただシキのみである』という意味の『唯識』って言うんだよ。知ってたか?」 「………………」 「……もう答えられネェか。マァ、いいか。じゃあサービスだ。オマエに伝言だ。『ばいばい遠野くん。ありがとう———それとまたいつか、ね』だとよ?」  ……………………。 「オマエと酒が飲めてよかったよ。…………じゃあまあ、もう一度会える事を祈ってるぜ?」  …………。  ………………。  …………。  ……。 「兄さん、兄さん!」 「大丈夫です秋葉さま。眠っておられるだけのようです」 「私の志貴が死ぬわけないじゃない」 「“私の”!? 遠野くんは貴女のものではありません!!」 「……あ、もうすぐお目覚めになられます……」 「どうしてそんな事解るのよ〜〜(ぶーぶー)」  秋葉の声は寝起きの俺にも判るほど必死だった。  流石に五人がかりで騒がれるといかに俺が大物でも、目がさめてしまう。 □林の中の空き地 □林の中の空き地  ボンヤリと目を開ける。  目覚めてすぐの目は、ボンヤリと周囲を捉える。 「大丈夫だよ、秋葉。何ともないよ。ふあぁぁぁぁぁぁぁぁ」  大きいあくびをして伸びをする。  見れば俺は木に寄りかかった状態で居眠りをしていたらしい。  その俺を中心にして、五人の女性が立っていた。 【秋葉】  腕を胸の前に組んでハラハラ心配そうにしている秋葉。初秋の季節に合わせた淡い色の服装が風に揺れている。 【アルクェイド】  こっちへ向かってこようとじたばたもがくアルクェイド。あいかわらず騒がしいヤツだった。 【シエル】  そのアルクエイドを相変わらず押し止めようと努力しているシエル先輩。彼女はやはり苦労人だ。 【翡翠】  翡翠は、俺のそばに跪いて、俺の様子をうかがっている。その律儀さが、嬉しかった。 【琥珀】  琥珀さんは、こちらを見てにっこり笑った後、着物の袖をきゅっとまくり、そばに転がっていた酒瓶とふたつのコップをかたづけ始めた。よく気のつく人だ。  流石にもう逃げるのも億劫だった。 『ちがうだろ?』  いや、億劫だったんじゃない。  きっとここが、俺の居場所だから。 『秋葉が……』  心配してくれたんだなあの顔は。  俺はいつもなら気がつかなかったような微妙な変化に気が付いた。  俺はそっと立ち上がった。 「秋葉」  歩み寄って、その頭に手を乗せる。 【秋葉】 「兄さん?!」  秋葉は俺の突然の行動に目を白黒させている。 「心配かけたな。俺は大丈夫だからそんな顔は止めてくれ。それではせっかくの美人が台無しだろ?」 【秋葉】 「わ、私は兄さんの心配などしていませんわ!!」  頬を膨らませて拗ねる。 「ああ、そうだな」  そう言って頭を撫でた。 【秋葉】 「あ……」  秋葉は呆然としていた。 『他にも……』  迷惑を掛けた人なら他にもいる。  俺は秋葉に笑いかけたあと、翡翠の方に顔を向ける。 「また迷惑をかけたね、翡翠」 【翡翠】 「…………いえ、そのような事は……」 「いつも助けてくれてありがとう、翡翠。感謝してる」 「……え?」 【翡翠】  翡翠は照れて顔を背けてしまった。  なんか変な事を言っただろうか? 【琥珀】 「ホラホラ、志貴さん、翡翠ちゃんが困ってますよ?」  そんな翡翠を助けるように琥珀さんが話し掛けてくる。 「困ってますか?」 【琥珀】 「ええ。まだ寝ぼけてらっしゃるんですか?」  琥珀さんが眉根を寄せて指摘する。  何だかおかしな事になってきたなぁ……。 「やだなぁ、ちゃんとおきてますよ」 「それとも変な夢でも見たんですか?」 「夢……?」  夢。そういえばなにか、大事な夢を見たような気がするんだが……。  思い出せない。  うーーーん。  何か……こう……。  夢で誰かに会ったような……気がする……かな? 「多分……、見たと思う」 【琥珀】 「いい夢でしたか?」  そう言って琥珀さんはにっこりと微笑む。  笑う彼女の表情と同じくらいの、暖かな夢のイメージ。 「ああ、いい夢だったよ」  俺は自信を持ってそう答えた。 『彼女には礼を……』 「ありがとう、琥珀さん」  あれ?  何で俺は琥珀さんに礼を言ってるんだ? 「あれ?」  今度は琥珀さんが声を上げた。  見れば彼女の頬で一筋涙が光っていた。 【琥珀】  表情はいつもどおりの笑顔。  当然、かつてのように無理して作った笑顔というわけではない。 「どうしたんでしょう、わたし」  琥珀さんはハンカチを取り出して涙を拭った。  そして手を胸に当てて、何かを考える。 「なんだか何かを思い出しかけたんですけど……?」  首を捻った。でも何も思い出せないそんな表情だった。  だがその笑顔に反して…… 『いや、その笑顔だからこその涙』  そんな気がした。  まだ彼女の瞳の端には、涙が光っていた。 「志貴、なんか変」 「そうですねぇ」  アルクェイドとシエル先輩の声がする。 「何なんだアルクェイド、やぶからぼうに。先輩も!!」  俺は不満を口にしてみる。  でも、別に不満があるわけではない。  そのまま俺はクスクス笑い出してしまった。 【アルクェイド】 「ホラ」 【シエル】 「ですねぇ」  アルクェイドはこちらを指差し、シエル先輩は困ったようにほっぺたに手を当てている。 『彼女達には挨拶を』 「変でもいいじゃないか。これからもよろしく頼むよ二人とも」  そろそろ俺自身にもなんとなく解っていた。  心の中に何かがいて、それが俺に何かをさせたがっているということに。  でも不快な感じはしない。  それはさっき夢と同じ、暖かな感じだったから。  でもそれはどんどん崩れていってしまっている。  それはすぐにいつもの俺の中に埋没してしまうに違いなかった。 【アルクェイド】 「じゃあ」 【シエル】 「とりあえず」  にたり。  笑う二人。 「聖別の儀式から始めてみましょうか?」 「それともアンタの聖典で殴ってみる?」 「まてっ!? 二人とも俺に何をするつもりだ!?」 「…………」 「なにって、ねぇ?」 「ねぇ」  これはダメだ!!やっぱり無理だ!!  前言撤回!!  俺は逃げる事に決めた。  アルクェイドもシエル先輩もなにかしら言い合いを続けている。  チャンスは今しかない。  脱兎の如く走り出す。  後ろは振り向かず、全力で走る。  後ろがガタガタ騒ぎ始めたが気にしない。  そんな事を気にしている暇があったら足を動かせ、遠野志貴!!  俺は叫び声を上げながら走る。  頬をかすめる秋の風がとても気持ちよかった。  肩が風を切る。  木々の葉が視界を流れる。  木の葉のむこうに見える星々は、きらきらと瞬き、やがて来る夜明けの気配を伝えていた。  どうせ、逃げ切れやしないのだけど。  意味のない事なのかもしれないけど。  ただ、こういう事が自分の世界なのかと思うと。  大それた事では無くても。  嬉しかった。本当に。 『そうだろう?』  ああ。心からそう思うよ。  俺は心の中の何者かにそっと告げた。  ここではないどこか、いまではないいつか  二人の人間が遠い遠い風景を眺めていた。  一人は、着物のようなものを羽織った青年。  いま一人は、どこかの高校の制服を着込んだ少女だった。 「あんな伝言でよかったのか?」 「うん。ありがとう、遠野さん」  彼らが見下ろしている風景では、未だに追いかけっこを続けている年若い友人の姿があった。 「よせよ! ……でもあのバカ、結局俺のことを夢だと思ってやがった」  青年は、その顔に苦笑を浮かべ、ちょっと不機嫌そうだった。 「あなたは見つけてもらえただけマシです。私なんて……」  そんな彼をみて、少女は非難の声を上げた。  頬を膨らませて、不満気に青年を見上げた。 「そうか。結局オマエは見つけてもらうには、志貴の『意識』が足りなかったんだっけ」  そこにいないはずの人間を見るには、とにもかくにも情報が必要だった。  何故ならば本来『五識』で体感されるはずの情報を、他の『識』で補う必要があったからだ。 「うん……たったの2日だもの……」  少女は胸に手を当てて思い出すような仕草をした。  その胸に去来するのは一体どんなものだろう。  無念か。  後悔か。  哀惜か。 「お盆から今日になるまで、せっかく頑張ったのになぁ……幽霊かぁ……。不便だよなぁ……」  青年はしみじみと呟く。 「でもいいです。わたしここでずっと待ちますから」  しかし予想に反し再び顔を上げた少女の表情は、晴れやかだった。  そう思わせるぐらい、生き生きとした笑顔がそこにあった。 「そうか? 便利だよなぁ、幽霊って……」  青年は満足そうに笑った。  彼の、最後の懸念が解決したからだ。 「……そこ、笑うところですか?」  少女は大真面目な顔で冷静に指摘した。 「……オマエはおしとやかな娘だって聞いてたんだがなぁ……」  青年はばつが悪そうに言った。  そこで、少女はからからと笑った。 「どこでどう間違ったんだか。……はぁぁぁぁ」  青年は無念そうにため息をついた。 「多分、最初っからです」  少女はクスリと笑って、再び下界を見下ろした。  青年は頷くと、同様に下界を眺める。  二人とも、何故かとても楽しそうだった。 「……そうか。じゃあ、次は気をつけなきゃな?」 「……はい、きっと……」